2011年10月21日金曜日

<リビア>カダフィ大佐 人心と理念を失った果ての末路

<リビア>カダフィ大佐 人心と理念を失った果ての末路

毎日新聞 10月21日(金)1時44分配信
 アラブの統一を理想に掲げた革命家は、抑圧に耐えかねた市民の反旗で権力の座を追われた末、生まれ故郷で「最期」を迎えた。42年にわたり親族支配で国を牛耳り、人心と、若き理念を失った元指導者の哀れな末路だった。

 カダフィ大佐は1942年、リビア中部シルトで遊牧民の子として生まれた。リビア大を卒業後、今回の「アラブの春」で反体制派の拠点となった北東部ベンガジの士官学校に入り、青年将校団を結成。69年9月、イドリス王制を無血クーデターで打倒して、27歳の若さで「君臨」した。

 革命を志したのは中学生のころだった。エジプトで自由将校団による王制打倒を達成したナセル中佐(後の大統領)の影響を受けた。共産党などの政治勢力を追放し、資本主義とも、共産主義とも違う「第三の世界理論」を提唱した。その集大成として書き上げたのが「緑の書」だった。

 政治的には直接民主制、経済的には国有化を国家の根幹に据えた。イスラム教の下に社会主義と民族主義を取り込んだ「ジャマヒリヤ」と呼ぶ独自の体制だったが、その実は独裁に過ぎなかった。一方で、女子士官学校を開設し、教育の機会均等を実践するなど、「女性の解放」では先駆的な一面もあった。

 70年代後半からエジプトなどが対米関係の改善に動く中、長く欧米との対決姿勢を堅持した。88年の米パンナム機爆破事件(270人死亡)ではリビアの犯行を追及する米国と対峙(たいじ)して、国連制裁を招いた。「中東の狂犬」の異名を取った。

 しかし、03年のイラク戦争後には突然、大量破壊兵器計画の放棄を発表。パンナム機事件でも遺族補償に合意するなど、欧米にすり寄る「優等生」の顔も見せた。

 「周辺の独裁者と比べ極めて『特異』な存在だった」(外交筋)。パレスチナがイスラエルとの和平を求める動きに反発し、リビア国内のパレスチナ人を追放するなど、90年代以降はアラブ同胞を見限り、アフリカ諸国に接近した。石油収入を支援としてばらまき「アフリカの盟主」を気取ったが、札束外交には反発も根強く、「盟主」にはなりきれなかった。

 この「異端」こそが今回、北大西洋条約機構(NATO)軍主導の空爆の呼び水になったといえる。

 「国際社会が対応に手を焼くシリアと違い、カダフィ体制が崩壊しても周辺への波及は小さい。カダフィ大佐の浮き上がった存在ゆえだった」(外交筋)【前田英司】
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